須賀川市人物読本 先人のあしあと -041/134page
を多田野(ただの)村にし、自然に下流に流すことでした。
久敬は、安積の村々の協力を受け、「ちょうちん測量」(そくりょう)で土地の高低を測(はか)りました。この測量はむかしからの方法で、江戸時代のはじめ、箱根(はこね)用水をつくったときに使われとても正確なものでした。久敬は、自分の全財産を技げ出して、用水路づくりの仕事にうちこみました。
ちょうどそのころ、県の役人中条改恒(なかじょうまさつね)は、開成山の開拓(かいたく)をすすめていました。久敬は、中条政恒に用水路づくりの協力を、なんどもなんどもお願いしましたが、聞き入れられませんでした。
また、明治政府は、久敬の計画した斉木峠案の水路計画ではなく、沼上峠案の工事を実行に移していきました。それは、失業した武士(ぶし)を救うために、熱海(あたみ)や日和田(ひわだ)などの上流の地域(ちいき)の開田をすすめていたからです。久敬は、今まで自分の全財産を技げ出して、この仕事に情熱をかたむけてきたので、沼上峠案を止めて斉木峠にするようさいごのお願いとして、東京の内務卿(ないむきょう)伊藤博文に直訴(じきそ)する決心を