須賀川市人物読本 先人のあしあと -051/134page
亀五郎が二十五才になったとき、慶応(けいおう)四年は、明治元年となり、新しい政府に変わっていきました。世の中も急に変わりはじめ、須賀川、郡山などもけいざいの中心としてにぎやかさを増し、物資(ぶっし)の輸送(ゆそう)も活発になってきました。
江戸時代から奥州街道(おうしゅうかいどう)の宿場町(しゅくばまち)としてにぎわっていた須賀川は、問屋も多く、会津地方、中通り、いわき方面からも、いろいろな物資が集まり、また、それを各地に送り出すこともさかんでした。さらに須賀川は、きざみたばこや、生糸(きいと)の産業もさかんで、中通り地方のけいざい、文化の中心的役わりを果たしていました。
亀五郎は、これから先のことを見ぬき、少しばかりの田畑をたがやし、炭やきで終わりたくないとつねづね思っていました。これからの世の中は、物資の輸送が必要になると考え、荷馬車による運送の仕事をはじめることにしました。
栃本村は、須賀川へ三里半(約十四キロ)、郡山、小野新町へは四里の道のりで、ほぼ中間にあり、輸送には通したきょりにあったのです。