須賀川市人物読本 先人のあしあと -053/134page
が東の方へのびているのです。しかし、うら山のうちで神社の東がわが一番せまいので、「よし、ここに洞門をほれば道路もよくなる」と考えました。
さっそく、江持村の戸長をたずね、協力を申し入れました。
戸長も、そのことには賛成だったので、村の世話人たちと話し合いをもちました。洞門だけでなく、それに通ずる道路も作らなければならない。それには土地の所有者の協力が必要だったので、話し合いがまとまるまでには、長い月日がかかりました。
そのころの江持村は、八十四戸、田畑も阿武隈川に面した平地と、うら山の高台をかいこんした畑があちこちにあるくらいで、ゆう福な村ではなく、洞門を切り開くだけの費用はとても出せませんでした。
何回か洞門のことで話にきた亀五郎に、そのわけを話し、とても無理であることを伝えました。しかし、あきらめませんでした。村の人々も、亀五郎の熱心さにおされ、洞門工事の費用を村で出すことにしたのです。