須賀川市人物読本 先人のあしあと -063/134page

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 じゅくは、礼儀(ぎ)作法やしつけのきびしいところでしたが、歯をくいしばって熱心に勉強しました。そのため、どんどん才能がのびて先生やじゅくの友だちから信らいされるようになりました。

 民吉郎は、たくさんの知識と測量技術を身につけてふるさとに帰ってきました。

 家に帰ってからは、一生けん命農業にはげんでいましたが、若いのにたいへんしっかりしており、村の人たちからも信らいされていたので十八才で庄屋(しょうや)(村長)のかわりになりました。

 明治八年(一八七五年)には、開成山(かいせいざん)で行われた農地開拓(かいたく)のための測量(そくりょう)をしたり、当時、まんぞくな地図がなかった岩瀬郡の村々の測量をして、しつかりした図面も作りました。

 明治十二年に塩田村戸長(いまの町村のしくみができるまえの町や村で、行政の仕事をする人)になり、ニ十ニ年に塩田村最初の村長になりました。

 村長になってからは、村をゆたかにするため田畑を開拓し、農作物にかかすこ


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