須賀川市人物読本 先人のあしあと -064/134page

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とのできない水をかくほしようと溜(ため)池を作ったり、用水路を作ったりしました。

 いまは、いろいろな産業があって働くところもたくさんありますが、そのころの山近くの村々では、農業や林業でのはたらきが一番だったのです。そのため、いっしょうけんめい農業のかいぜんにつくしたのです。

 民吉郎は、前々からしたいと思っていた一つにふるさとの歴史の研究がありました。

 いそがしかった村長をやめると、さっそくとりかかりました。近くの村々を歩き、古くから伝わっている文書や、いいつたえなどをしらべたり聞いたりしました。

 とくにきょう味をもったのは、宇津峰山の歴史です。それは、南北朝時代(やく七百年前)といわれた昔、北畠顕信(きたばたけあきのぶ)という人が守永親王(もりながしんのう)を助けて足利尊氏(あしかがたかうじ)のけらいと戦った所でした。

 そんな時、たまたま大槻文彦(おおつきふみひこ)という先生が、南北朝の戦いの研究のため、宇津


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