須賀川市人物読本 先人のあしあと -080/134page

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 昭和十年、海軍の記録映画「赤道越えて」をかんとくとカメラマン二役(ふたやく)で製作(せいさく)して評判(ひょうばん)になりました。昭和十四年には、飛行機をそうじゅうするための教材映画のさつえいを頼(たの)まれたので、本格的に飛行機のそうじゅうを習いました。

 昭和十七年にさつえいした「ハワイ、マレー沖海戦」は、東宝映画会社に、特殊(とくしゅ)技術課ができてから五年目の作品です。

 ミニチュア、セットはオモチャだといわれていたころ、六千平方メートルの敷(しき)地いっぱいに作られた“真珠湾(しんじゅわん)”はたいへん評判(ひょうばん)になりました。

 いちばん苦労(くろう)したのは、どのようにして本当のような波がつくれるかということでした。人工の波は、どうもつるつるしていて、湾(わん)の中の波でも、大洋の波でもない。そこでプールのはしで板を使ってウネリを作り、せん風機の風で、波の上をくずすという方法を考えました。

 かん隊が威風(いふう)堂々として出航(こう)するところは、二十畳(じょう)じきくらいの広さに木で台を作り、トタンをしいてドラムかん三本ほどの寒天を流しこみ、それをベタペタ


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