須賀川市人物読本 先人のあしあと -115/134page

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た。そして、ライ病で苦しむ人々のいることを知って、自分のお金で、草津に病院を建てました。

 けれども人のいやがる病気、そして、山おくなので、医者もかんご婦もきてくれませんでした。リー婦人は、こまりました。そうしているうちに、草津で働くことが自分の道だと思う千代子が、行くことになりました。

 しかし、かんご婦の知識だけで、多くのかん者を治りょうすることはむりでした。そこで、東京の病院にいるケサに、助けをたのみました。ケサは、「何かをしなければ」となやんでいたときでしたから、すぐ行く決心をし、草津に向かいました。

 「草津よいとこ一度はおいで……」の歌があるだけに、草津はよい温泉でした。戦国時代、戦いできずついた武士は、温泉でなおしたといわれます。特に、武田信玄(たけだしんげん)は、家来(けらい)たちに、この湯をつかわせたと伝えられています。九十度以上のあつい湯は、きずばかりでなく、ライ病にもよくきくといわれ、遠い不便なところ


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