須賀川市人物読本 先人のあしあと -124/134page

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柳沼牡丹園とよばれるようになりました。

 柳沼家は代々須賀川で、もめん糸やきぬ糸を売る商ばいで、糸八木屋といわれていました。源太郎はこの柳沼家の長男で、十五才のとき、東京の開成中学校に通学し、さらに東京の農科大学で勉強しました。大学を卒業して、家にもどった源太郎は、牡丹園の仕事に力を入れ家の商ばいは弟にゆずりました。

 牡丹の花を深く愛した源太郎は、牡丹園に移り住み、牡丹とともに起きて、牡丹とともにねるといわれるほど、心をこめて、一生けん命育てました。

 源太郎は、数千本もある牡丹に支柱 (しちゅう)(ささえる竹)を立てるのにも、根をいためないようにと、ぜんぶ一人でやりました。

 また源太郎は、む中で牡丹を育てながら、禅(ぜん)(仏(ほとけ)の教え)の道に入り、禅の勉強をしました。先生がなくなると、別のおしょうさんを先生として、釣二十年も修業をつづけました。

 源太郎にとって、牡丹を育てる心も、禅の道を勉強する心もかわりありません


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