須賀川市人物読本 先人のあしあと -127/134page
源太郎は、俳句をつくるときは、破籠師(はろうし)という名まえをつかいました。牡丹を育てながら、俳句にも力を入れ、すぐれた作品をどんどん発表しました。
ところが、昭和に入ってからまもなく、日本の経済はふけいきになり、牡丹園の経営(けいえい)もたいへんな時代をむかえました。しかし、しんせきなどの助けをかりて、ようやく苦しさからぬけだすことができました。
そのころのことを、福島大学(ふくしまだいがく)経済学部(けいざいがくぶ)教授(きょうじゅ)、大河原清一郎(おおかわらせいいちろう)先生は、福島民報(ふくしまみんぽう)に
「このごろ須賀川のぼたん園が、けいざい上の苦しみから、たおれそうだということをいくども新聞でみたが、須賀川のぼたん園の花がひらいたことを耳にするたびに、ぼたん園を愛するわたしは、心配でいても立ってもおれない気持ちになってくる。須賀川のぼたん園があるというだけでも、わたしとしては非常(ひじょう)にありがたく思っている。もともと名勝(めいしょう)の土地を守っていくことが、ただひとりの人にまかせられていることなど、およそ無理(むり)なことである。須賀川のぼたん園が、柳沼さん一家の力でささえられてきたことは、おどろくほどりっばなことであり、