長沼町の伝説 -010/224page
昔、中通りから会津に入るには、長沼を通る会津街道がもっとも盛んな通行道路であった。小中街道 はその支線である。
会津は酒造りが盛んで、それを造る桶の「タガ」が沢山必要なので、中通りから竹を加工して牛の背で 運んだ。牛は小中村の坂を登り、頂上の広場で、背に荷物を付けたまま休んだという。それでペコッ原 という名前が付けられた。またこの原は地芝居などの小屋もかけられたといわれている。
夜になると、この原に各地方の年を経た猫どもが何十匹と集まり、夜が明けるまで踊ったという。主 な猫は矢田野のゴンボ猫、弥吾坂の弥吾六、臼ケ堂の臼六だといわれ、そのはやしに
矢田野のゴンボ猫、来ないうちは
さっばり調子が揃わない
しっちょいさあ しっちょいさあと踊ったといわれている。昭和の始めまで、盆踊りにはこの唄が歌われていた。
(話者 八木沼勝美)
笹ケ平踊窪の由来 《小中》
小中字笹ケ平に、少し平なところで、土地の人が通称踊窪と呼んでいるところがある。
いつのころか、臼ケ堂のうすころばし猫と弥五坂の弥五六猫と、矢田野の権坊猫が集まり、長い間、 踊りつづけたという。
ある日、矢田野の権坊猫は、踊りに来るとき、ちょうど宮本のご祝儀に通りかかり、ご馳走をわけても