長沼町の伝説 -052/224page
に行方不明となった。
(話者 柏木平蔵)
矢田野(矢壇)の由来 《矢田野》
桓武天皇の御代、延暦の頃、坂上田村麿将軍、奥州達谷ケ 窟に籠って抵抗する蝦夷の頭、高麿、悪路王を打つため、奥 州に向かった。
街道白河より松本の稚児の橋を渡り、矢田野の広野を通り 大久保の弘法壇にかかり、奥州に達した。将軍、この広野に かかりしとき天に祈り、国土守護のため天に向かって大矢を放 った。矢は広野の中央に落ちた。ここに壇を築いて、持仏の 十一面観世音を置いて祈った。西の方に神居山があって、こ こにこの観世音を安置した。
大矢の落ちた所に築いた壇を矢壇といったので、村の名は 矢壇と言うようになった。いつしか矢田野という字を当てた。 今も呼名は、「やだん」といっている。