長沼町の伝説 -053/224page

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 また小字に二矢という所がある。ここは第二の矢を放って落ちた所という。第一の矢の落ちた所から、 約百メートル程北西の方に当る所である。

 矢田野の南東の地に、川床岩磐の地があって、ここに社を建てゝ大矢の鏃を祀り、磐女大神と称した。 今の磐女神社である。当地方の石背国の名は、ここの岩磐より名付けられたという。

 神橋の下の岩磐を、社前を流れる清流が洗い、風光明媚である。

        (「桙衝郷土誌」より)

木之崎の由来 《上木之崎》

 木之崎の地は、昔は原野だったといわれる。この頃、尾張国対島天王祠官、堀田出雲頭の一族堀田左 近が来て、開発し村社として牛頭天王を遷して祀った。

 神像は近江国比良宮祢宣、三和胤弘の作といわれ、尾張国対島天王の神像と同木に彫刻し、尾張国対 島天王の神像は本木を用い、当社は先木で造った。それで先木と野とを符合して木野先、木之崎と名付 けたといわれる。

 その後、紀州の住人、吉田土佐守連幸が来て、氏神に熊野社を遷した。また常陸の人、命長万右ヱ門 が来て、本国鎮守産土神を祀り三社となる。堀田氏の子孫、後に木之崎氏と改める。橋本大納言の子孫、 嘉助慶長二年来て、農に帰したという。これらの子孫、連続して一村をなしたといわれる。


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