長沼町の伝説 -057/224page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

死体を取り調べたところ、焼火箸で刺し殺され、小松沢の奥でだれとも面相の判らないように、面の皮 を剥ぎ、隣の沢に棄てたのだろうということになった。

 その後、一方の沢を面剥沢といい、棄てた沢を死人沢と呼ぶようになったといわれる。

 死人片付けの当番の中に一夜の宿を貸した百姓も入っており、また、おれの手にかかるかと思わずつ ぶやいた。これを聞いた村人たちは、責めるにおちず、語るにおちたと、諺の通りであったことを語り 伝えている。

        (話者 柏村英一)

杢道内の由来 《長沼》

 杢道内は長沼豊町の西、北古館の北の方にある地名だが、昔、北古館の殿様が江花の大和山定満寺を、 舘の北東の地に移して江光院と号して城の守りとした。

 殿様は寺の方丈を招いて、「貴僧の目の届く限りの土地を寄附する」といった。舘より寺まで目の届く 限りの土地が寺の領となった。

 この地を目通りと呼んでいたが、いつしか時が変り、目通りの字を、「もくどう」と読むようになった。 今は杢道内という字を当てている。

        (「長沼名義考」より)


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は長沼町教育委員会に帰属します。
長沼町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。