長沼町の伝説 -062/224page

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つしか七曲り坂と呼ぶようになった。

 昔、源治郎右ヱ門という人の堀った清水があり、野良仕事の帰 り道、この清水で一休みして水を飲んで、この坂を登ったといわ れている。

 今は東の方に大きな道路ができて、北向開墾に入る道も良くな ったので、この坂を通る人はほとんどいない。

        (話者 井跡忠兵衛)

七曲りの坂
七曲りの坂

四十壇の由来 《矢田野》

 矢田野屋敷の東、磐女神社の山続きの東を四十壇と呼んでいる。 四十の壇があったという。大きいのは八尺、小さいのは五尺あっ たといわれ、昭和初期の開墾などでほとんどその姿を消してしま った。

 四十壇の西の山には、いまでも、十数ケの壇があるので、ここ 一帯は古墳群であったろう。また、ここの道路を馬を引いて通る と、ポンポンと音がするのでポンポン山と呼ばれている。

        (「白河風土記」より)

四十壇
四十壇


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