長沼町の伝説 -063/224page
京塚と蝦夷穴 《横田》
横田の西に京塚という地名がある。第五十六代、清和天皇の貞観五年、国中に天変地変が起こった。 先年、鎮守府将軍、文屋綿麿、文屋宮田麿を従い、東北の蝦夷征伐の際、蝦夷人をみな殺しにしたので、 その怨霊のためとあって、国中の神社仏閣に祈願をさせた。石背国の諸寺、長光寺原に衆集して読経を 修めたので、のちに天変地変は止んだという。それら経具を塚に納めた所というので、経塚の名が起き たという。北側の丘陵一帯を洞山と呼んでいる。ここには昔、蝦夷が住んでいたという蝦夷穴がある。大 きいものは四メートルもあって、昔、遊人などがこの穴を博打をするのに使ったといわれる。
明治二十三年の大雨で、土砂が崩れ、十数ケ所の穴が出た もので、当時、穴の中から直刀、曲玉、土器、人骨などが発 見された。曲玉は水昌、蝋石などであった。人骨は胚骨で現 代人のものより大きかったという。
それ以来、沢山の人が宝堀をして、沢山の穴が盗堀されて しまった。昭和三十年頃、洞山の西を開墾したところ、直刀、 人骨、須恵器などが出土した。西続きの末津久保には、昔、 塚があって、ここからも直刀や土器が出ている。この山一帯 は横穴古墳群である。
「桙衝村誌考」「桙衝村郷土誌」より)