長沼町の伝説 -069/224page

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 石背山に関しては、河原左大臣、源融が詠んだ歌

    かくとだに
     思ふ心の石背山
    下行く水に
     草かくれつゝ

が後拾遺集に載っている。

 建弥依来命は、のちに梅田(岩瀬村梅田)の地に移って、子 孫、梅田荘司が永く栄えたといわれる。

        (話者 江連 栄)

神屋敷
神屋敷

重兵衛屋敷と毒清水 《滝》

 戦国時代の江州の武将、浅井長政の家来で小針重兵衛なる者がいた。城主浅井家が滅びると、重兵衛 は東北の地にのがれて農民となった。現在の藤沼池(田向池)の近くに、重兵衛の屋敷があったと伝えら れる。

 重兵衛は、田向の周囲を開墾し、田圃を耕作していたという。近くの山を重兵衛山といった。山には 重兵衛が植えたといわれる「からかさ松」が最近まであったが、いつの間にか切り倒されていまは残って


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