長沼町の伝説 -089/224page

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弘安六季大才発末八月廿二日
             良等
聖靈出離生死往生極楽也

窟の入口には、いつ頃か屋根がかかっていたことがうかゞわれる。

 また下の畠の中に大きな巌がある。上部には庚申塔が建てられて いるし、その下には二つの窟がある。右の種子は大日如来、中央に 陰刻された「趣逆修作善因、期来世之妙果、康永元年壬午五月日」と 墨書による「逆修七分全得之故也」。

 左窟には「亀松丸」の陰刻、墨書で「亀松丸之 康永三年六月廿日」 とある。康永の年号は北朝年号で、しかも逆修供養である。生前、 自己の冥福を祈って、北朝年に投じた一党であろう。亀松丸の事は言い伝えにはない。

 東面の岩壁には、南無阿弥陀仏の碑や、地蔵様が並んである。地蔵様は風邪薬といわれ、民間薬とし て、欠いて用いたので顔の形も損われている。俗に鼻欠地蔵と呼んでいる。

 ここの靈場化は、弘安六年より明治まで約六百年間続いている。この麓に鹿舞山威光院常楽寺があっ たという。のちに木之崎舘に移ったといわれる。

 峯続きは「松山城」と呼ばれ、伊達政宗が横田城攻略の時陣したといわれる。

        (「長沼町の文化財」写真集より)

岩崎山
岩崎山


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