長沼町の伝説 -101/224page

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時、芦名氏に属し、猪苗代の戦いに討死にしたので、当所に移して、繁翁和尚の引導にて葬式を行い、 菩提供養のために一寺を建立したという。しかし、明治二十年、長沼の大火で灰燼に帰した。鐘つき堂 だけが昭和初期まで残り、鐘の音はお昼の時刻を知らせた。

 昭和三十二年、町の公民館建設のために、墓地を一ケ所に集めた。

        (「長沼名義考」より)

洞昌寺 《長沼》

 天神山洞昌寺は当所、永泉寺の末寺で金町下にあっ た。本尊は釈迦如来、脇仏、文珠菩薩、普賢菩薩であった。

 開山は永泉寺第五世繁翁俊苗大和尚、大壇那は新国 平三郎頼薫、法名洞昌院殿賀山宗慶禪定門である。

 平三郎は長沼城主、新国幸頼の三男で、上総介の弟 にあたる。会津の城主芦名氏に属して、天正十七年、 会津猪苗代の戦いに伊達政宗の軍と戦い、討死にした もので、繁翁和尚の引導で天神山の頂きに葬り、その 麓に一寺を建立して天神山洞昌寺と号した。文祿四年、

洞昌寺跡の五輪塔
洞昌寺跡の五輪塔


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