長沼町の伝説 -106/224page
のちに西福寺は無住となり、さらに天保年間社中に変死があって、社内を汚したので、社頭を焼き払 って、新宮を造営した。
弘北年間、祭主安藤筑前守、神号を勧請して、正一位戸上稲荷大明神と号した。
祭日は九月十七日、明治八年官命によって、日高見稲荷神社に合祀された。のちに信濃町の人たちに よって再建された。
(「長沼名義考」より)
滝不動尊 《滝》
無底明観という憎が、この地に来る時、大和国の極楽寺から、運慶の作といわれる不動明王の像を背 負って来た。そしてこの地に一寺を建てて、住んでいた。
この不動様は、高野の赤滝の不動、成田山の不動に並んで、日本三不動といわれた。
北條時宗の時代に、蒙古が攻め寄せて来た。全国の神社、仏閣に敵国降伏の祈願をした。その時、源 某という天皇の勅使が来て、祈願した。蒙古は神風によって敗れ去った。これ神仏の加護と、特に不動 尊の靈験あらたかのためと、朝廷より菊花の御紋章を頂いたという。
戦国時代には、武田信玄や近くの城主や、豪族などがみなここで戦勝祈願したという。不動堂の正応 二年の棟札には、延寿山清滝寺明観の名が書かれてある。桙衡長楽寺の末寺だった。
「ありがん堂」の三式板碑には「昔、紀州高野の僧侶だった明観が、今は石姫山の住僧になったように記