長沼町の伝説 -109/224page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

 境内の中ほどに、広場があるが、ここはその昔、八幡山護国寺があった所である。昔は神仏混淆であ った。

 のちに舘ケ岡来迎寺の末寺で、光福寺となった。金色の薬師如来様が祀られてあって、お釋迦様の大 幅掛軸が本堂に安置されてあった。

 当時は戸数五十戸で、平和な村であったが、ある年、疫病の大流行があって多数の死者が出た。死者 の中に、憎の名前もあった。憎をなくした寺は荒れるにまかせた。

 時代の変遷は廃仏毀釈となって、寺は廃止されてしまった。荒寺は協議一決して、競売にすることに なって、私の祖父菅野次平が落札した。本尊の薬師如来は中屋敷の裏に薬師堂を作り祀り、掛軸は当時 の世話人、半沢氏宅に保管されてある。

 この広場は、豊年踊りの櫓を上げる場所となった。盆や祭の夜は、近郷近在の若者の男女が集まって 踊りを踊るのに良い場所である。

 志茂甚句は通称、「宵や―」と呼ばれ、「長沼甚句」よりもテンポが早く、太鼓も流暢な響きがある。

 なおこの広場は神楽芝居が催された場所で、当地方の滝神楽(太神楽)、は、秋祭りには良くここで催さ れ、色々な出し物や曲芸なども演じられた、村人たちのひとときの娯楽と興を誘った祭も今は懐しい思 出であった。

        (話者 菅野精一)


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は長沼町教育委員会に帰属します。
長沼町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。