長沼町の伝説 -125/224page
寸八分の金の十一面觀音像を結髪より取出し、奉納した。更に供奉の憎、満月上人を居住させた。
義家公は、この荒鹿に打乗り、長沼大高山に登り、さらに八幡岳に至った。荒鹿再び膝を屈したので ここに軍勢をたむろさせた。その後連戦連勝して、庚永五年、東北を鎮定させる事ができた。
義家公は、長光寺を弘祿山長楽寺と改称して、御甲、刀その他の宝物を奉納したという。
応永十八年、智山派新義真言宗、賢日が中興開山となり、その後寺運ますます繁昌し、末寺を建立三 十四ケ寺を持つようになった。元祿三年庚午六月一日、鹿島大神宮の本地仏を桙衝神社に合併したため か、大火多く、本寺も炎上して、旧記什物寺宝などが焼失した。
その後、桙衝庄屋安藤孫兵衛の寄進によって、本堂が再建された。第十五代宥玄靈夢によって、弘祿 山を荒鹿山と改称した。元祿六酉年、大門を建立、石瓦で屋根を葺いた。桙衝安藤弥五右衛門の寄進と いわれる。
鹿島様(桙衝神社)の別当を司り、当地方随一の寺運も、明治の廃仏毀釋により神仏分離となって、衰 微の一途をたどり、わずかに昔日の面影をとどめるのみである。
(「長楽寺由緒書」「桙衝郷土史」より)
姥神様 《古舘》
古館の西、古町地内に姥神様と呼ばれている石の祠がある。桙衝神社の祭礼の際に、お假舎がここに