長沼町の伝説 -143/224page
長沼城 《長沼》
長沼町の北の山に城があった。今も城山と呼んでいる。長沼城、千代城、丑ケ城、牛臥城ともいわれた。 応永年間、長沼隆時が城を築いて、北古館より移ったといわれる。
のち、晴忠の代に、南北朝の争乱の時、白河結城氏の軍に攻略され落城したという。この時二の丸に ある石が武者と化して城を防いだという。
天文十年、会津の城主、芦名盛舜が家を盛氏に譲り、隠居 の地を求め、長沼の地に築城を命じた。普請奉行に富田右馬 允、桑名掃部両人に下知せられ、縄を張り、城郭が築かれた。 二十三年普請成就後、盛舜は発病してこの城に移らずに終っ た。富田、桑名の両人は城代に仰せ付けられた。丑の人口の 故に丑ケ城、応永の頃の古城を再興したので、千代城とも称 した。門は寅の門、本坂門、西の門、城下門の中の門とあり、 中の門は十八年酉年に作ったので酉の門ともいう。
旧名見付は四ケ所、北町見付、西沢見付、坂下見付、道場 見付、新見付、要害砦は三ケ所、町中舘、商館、西舘、丑堀 は二十二年丑の春成就したので丑堀といった。