長沼町の伝説 -144/224page

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 古城の中に、井戸の数二七あり、主上を合せて二八宿をか たどり、これを富田右馬允差別して掘らせたので、本丸の井 戸を富田が井といった。

 永禄四年、会津で謀叛があった時、富田の一族、これに組 したので改易となるが、のちに赦されて姓を松井と改めた。 桑名氏も疑われ、城代を免じられた。中地の城主、新国頼親 が長沼城主を命ぜられ、一万五千石を領した。

 頼基の代、天正十七年、伊達政宗の軍門に降り、須賀川合 戦にはとくに先陣となって戦った。

 豊臣秀吉小田原攻略後、天正十八年八月三日、会津に向か う折、長沼城に宿泊した。御殿を新築して迎えたので、大変 喜ばれ、興永閣という名称をもらったという。また一説には、前後不合理な事を田舎の言葉で話したの で、不興をかって領地を没収されたともいう。

 蒲生氏郷が、会津領主となり、長沼城代には蒲生郷安がなった。のち蒲生主計助となる。

 上杉景勝時代は、島津泰忠、(一書には月下斉)となり、慶長五年所替となり、在城三ケ年。

 蒲生秀行時代は、蒲生郷治となり、のちに本山豊前守安政となり、さらに稲田数馬貞祐、その子、志 摩守貞明となる。

長沼城遠景
長沼城遠景


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