長沼町の伝説 -146/224page

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晴れていたが、途中、少々雪が降ったと記している。

 二十九日勢至堂をたっている。朝は雪降りであったが、すぐに晴れて勢至堂の山嶺をながめている。 この日は若松に宿泊している。

 勢至堂のどこに宿泊したかは記されていないが、松陰二十歳の年である。

 当時、松陰が国際関係に目を開き、長崎、江戸に遊学、西洋兵学や経学を研究中のころである。

 その後、松陰は脱藩の罪により萩に閑居されるが、日本の改革に志、水戸学の影響で、日本史を研究、 再び江戸に出て、佐久間象山に師事した。

 のちに安政三年松下村塾を開き、多くの門人を育成したが、安政六年、安政の大獄に連座処刑された。 三十歳の若さであった。勢至堂に宿泊してから十年後のことである。

        (「福島県史料集成」より)

石上神社由来 《上江花》

 石上神社は、江花字屋敷(上江花)にある。大和国山辺郡布留村に鎮座の石上神宮と御同体にして、御 勤請は護良親王の御子、興良親王の奉迎する所にして、石上布留神宮の御分靈である。

 護良親王は後醍醐天皇の皇子で、建武の中興のあとは、征夷大将軍兵部郷に任ぜられた。足利尊氏と の対立、新待賢門院のざん言によって、鎌倉に流され、土牢の中で、足利直義の軍に殺された。


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