長沼町の伝説 -147/224page
後村上天皇の御代、興良親王は鎌倉の賊兵の難を逃れて、石上寺院に隠れていたが、この朝の勢強く、 ここにも隠れている事が出来ず、非常に御苦慮されて居たのを畏れ奉って、陸奥の人、江花丹後清常、 攝津の人、森田縫殿売春胤、大和の人、二瓶弥次郎、祠官、和田因幡守の四人の者がお供となって、王 の姿を憎として御名を常満と改め、お供の四人も、また僧となって、おのおの笈を背負って、中に石上 大明神の御分靈を安置して、前立は御本地仏地蔵尊を現して、賊害を避け、当国に御下向を進め奉った。
丹後の故郷、江花の離れ山の頂に祠を建てゝ、石神大明神と崇め奉った。山の名を大和沢山と呼び、 その麓に御殿を新築し、側に一寺を造営して、大和山常満寺と称した。石神大明神の別当として和田因 幡守を神主とした。
丹後は立石山の麓に、館を築き、「江花館」或いは「丹後館」と呼んでいる。北朝、足利氏の軍勢に攻撃さ れ、森田、二瓶両氏は戦死し、王も又死去したという。丹後も又会津に去ったといわれる。
今も旧跡を寺と呼んでいる。昔ながらの清水が流れ、王が作ったという南御作田、北御作田が残って いる。。御所跡、閑居御所、塚もあったというが、わからない。寺の門口に、清常の植えた大椿も今は 枯れて、椿畑の名だけが残っている。
石上神社は、永禄年間に屋敷の中の森に遷した。現在は石上布留神社と呼んでいる。 森田、二瓶、和田の子孫は上江花に残っている。江花丹後の子孫は、立石と名乗り、天栄村に住むとい う。
(「郷土誌」・「石上神社由来記」・話者 小柳仁吉より)