長沼町の伝説 -150/224page

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帝都復興につくした功績は世の人の知るところである。

後藤新平が、少年時代の一時期を長沼で過ごしたことは、大変、ゆかり深い因縁である。氏は岩手県水 沢藩の小姓役後藤十右エ門の長男で、母は同藩医高野長安の長女である。長安は、幕末の志士高野長英 の実子にして、氏はその曽孫に当る。

 明治元年、同地に膽沢県が置かれ、大参事として安場安味が赴任すると、父は懇請してその学僕たら しめたり。安場氏はその配下たる権大属阿川光裕に托す。明治四年膽沢県廃止され水沢県となり安場 氏は福島県知事に転任し阿川氏も亦伴われてその翌に赴く。明治六年氏十七才の時阿川氏を福島県に 訪れその許より同地の英語学校に入るも、阿川氏はその習年を以って須賀川支庁詰となるや倶に行き 須賀川医学校に入るを得たり。阿川氏の任は転じて長沼出張所詰(第十五区会所)区長となる。明治七 年一月阿川氏に伴れて長沼に来る同八年七月まで居たり。その間磐瀬塾に就きて経書の研究に努め、 亦同地の武田奥次郎氏の庇護により須賀川医学校に通学す。明治九年氏二十才福島県知事安場氏の愛 知県知事になるや氏も亦阿川氏に伴われて名古屋に赴き愛知県病院の一医員に任ぜられる。これ氏の 任途を得たる初めなり。

 右の記録は、「後藤新平傳」の序文前段にあるもので、氏は明治七年一月より同八年七月までの間を長 沼で過ごした。短い期間ではあったが、長沼での生活の片鱗を当時の同僚だった古老は伝えている。

 当時の支庁長沼出張所は、金町一四七番地桑名長道氏宅にあった。そして長沼から須賀川医学校に通 学した。しかも山合いの悪路をものともせず、弊衣破帽、木綿の粗服に短い袴をつけて、下駄又はわら


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