長沼町の伝説 -151/224page
じをはいて、通学したことであろう。
その間、磐瀬重喬が私塾を開いて、地方の子弟に漢学を教えている夜学塾で学んだ。また日頃の窮屈 な生活ぶりを支えてくれたのが、当時町の顔役であった武田奥次郎氏で、何くれとなく面倒を見たこと が古老の話に残っている。
私の祖父久保助三郎は信濃町上屋敷の生まれで、同じ年輩であった。人々が阿川代官又は阿川様と呼 び阿川支所はつい近くにあったため、とくに親交が深く遊び友だちであった。当時の模様を、晩年よく 語っていたものである。
氏は剛毅の内にも、明朗潤達な性格で常に餓鬼大将格で腕白この上もなかったという。当時の少年の 遊びは素朴であり、単調であった。例えばネンガラ打ちという遊びがあった。
秋、郊外の刈田の跡でネンガラ(径二寸長さ二尺位の 樫や楢又は雑木の丸棒)を削り、先端を尖らし、右手に 振上げて田の面に打込む。相手はこれに挑戦しくて、 その棒を倒す。倒れた棒は勝った者の所有となる。棒 の身柄を取合う一つの賭け勝負である。大勢の友だち 幾組もが、泥にまみれて、真剣に戦い合う遊びである。
新平少年は強かった。何十本もの戦利品をかゝえて、 武田氏の風呂場に持ち込み、自ら湯を沸かして、悠々