長沼町の伝説 -152/224page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

と風呂に浸って、詩など吟じていたというエピソードも残っている。

 後年、磐瀬重喬翁が没し、頌徳碑の除幕式が行われた。東京で、要職にあった後藤氏は、公務多忙で、 自ら出向することができず、使者を代席させ、かつての報思の辞を厚く述べた。

 碑の額面「敬神尊皇」の讃は、後藤新平の筆になる。

        (話者 久保初五郎)

陣場 《小中》

 陣場は臼ケ堂の南の山頂にある。その昔、八幡太郎義家が蝦 夷征伐に来た時、ここに陣を敷いて、長沼の蝦夷討伐をした所 といわれている。今も陣太鼓を埋めたという所があり、踏むと 音がするという。

 義家は笠間稲荷大明神を拝受して来て、御宅山に祀り、戦勝 を祈願したという。討伐後、兵を卒いて帰る時、稲荷様の仕守 役を家来の中から選んで残した。この人は小泉氏で、子孫は元 禄二年まで御宅に住み、後に上小中に移り、一村をつくり、三 山獄神社の神主となった。

 一説によると、小泉氏は、大阪豊臣家の家臣で、大阪城落城

 

陣場跡
陣場跡


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は長沼町教育委員会に帰属します。
長沼町教育委員会の許諾を受けて福島県教育委員会が加工・掲載しています。