長沼町の伝説 -157/224page
後胤で、六世三浦平助元成に至って、文治年間、佐原十郎義連、奥州会津に封ぜられた時、随って来て 家臣となった。
至徳元年、芦名直盛は会津の小田山に新城を築いて移る。郭内を山の内、郭外を黒川といった。三浦 平助九世の孫、三浦右近為義も山の内に居をかまえていたので、三浦を改め、内山右近と名乗った。天 文年中、芦名盛氏会津四郡及び仙道の郡邑を多く領した。
長沼には、新国上総介が在城した。この時、内山右近八世の孫、伊勢守元経その息、伊勢守為元とも に岩瀬郡小中の館に移った。
天正年中、芦名義広の時代に、一族猪苗代弾正の裏切りによって伊達政宗の軍に敗れた。芦名義広常 州江戸ケ崎に敗走したので、伊勢守も後を慕って江戸ケ崎に移り天正十九年五月、この地で死亡した。
伊勢守の息、右近為春は、この頃、会津に在勤していたので、戦上原の合戦に出て、鉄砲に当って、 歩行困難にもかかわらず、ようやく小中村にもどって来た。父の後を追って、常州に行くことができず、 姉聟長沼の城主新国上総介に寄寓した。
その後、新国上総介も、豊臣氏のために退去したので、右近は浪客となって、小中村に居住した。そ の子、彦左衛門は、一村の人々に望まれて村長となる。以来、子孫今に至るという。
分家は上小屋村、内山茂左衛門、大屋村、内山官左衛門、本村では農夫総八、その支族分かれて十二 人あるという。
(「白河風土記」より)