長沼町の伝説 -159/224page

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右は文化五辰年十月十三日左は文化二寅十月朔日、とある。時の庄屋はその跡が絶えたといわれる。

        (話者 佐藤春雄)

古館の由来 《古館》

 桙衝字古館は、ここに古い館があったので、その名が付け られた。この館は、南北朝の頃、梓衝館と呼ばれて、館主は 二階堂時藤入道道存であった。岩瀬郡西部の中心地で、西方 二一郷村を領したという。

 南北朝時代に、ここは争奪の地で、結城親朝、仁木頼幸、 伊賀盛光などの名が諸書に見られる。

 戦国時代には、宮内太夫或いは宮内少輔行正とある。後に 須賀川二階堂氏の家臣、塚原伊豫守が館主となった。

 舘の北の土手に大きな五輪塔があるが、『白河風土記』で は、塚原伊豫守の墓といっている。しかし、その形式から見 れば、鎌倉時代のものといわれるので、二階堂道存の墓と思われる。水輪が失われているが、当地方で は最大のものである。当時の堀跡の一部分が今も残っている。

        (「白河風土記」「桙衝村誌考」より)

古館堀跡
古館堀跡


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