長沼町の伝説 -163/224page
壮観であったという。
その後、明治維新に至るまで、溝口家の子孫が代々相続し城主となる。
花の盛や月の夜は、城主より家臣に至るまで栄華の物語が多かったが、明治元年、会津戦争に際し会津 藩兵によって兵火にあい、さしも安荘なる舘廊も一朝にして鳥有に帰してしまった。
大岡定宅地内に一木の老桜がある。「御殿桜」と呼ばれ、その昔、館主遣愛の桜だった。今も昔ながら に咲き誇り、往年の夢を偲ぶだけである。
(「郷土史」より)
松山戦場址 《横田》
芦名、伊達、二階堂氏の争奪の歴史を秘めている松山城は、横田字松山にあった。
永禄五年五月、伊達照宗は、軍を卒いて、この地に屯し、横田城及び木之崎城、矢田野城を改めたが、 横田城主左エ門尉義信の守りが堅くなかなか屈せず、合戦は百余日に及び、照宗ついに退去したという。
天正十七年十月、照宗の子政宗が、雄志を抱き、四方を攻略し、勢いに乗じて、大軍を卒いて当地侵 略をはかり、再び松山に陣をかまえれば、城主二階堂豊次郎は勝目のないことをさとり、十月六日、降 伏した。
現在、松山城址は大破して、その規模は明らかでないが、東西にのびる高さ三四〇メートル程度の丘 陵上に築かれた山城で、南、西の二方面は急崖をなし、長沼、矢田野方面を眼下する。東方のみは丘陵 に続くため、空堀を切っている。
(「桙衝郷土史」より)