長沼町の伝説 -167/224page

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 その後、城中ではしばしば不審な事が起こり、桜姫は大病となり、遂に死んでしまった。時貞も、病 気となり、日増にやせ細るばかりとなった。ある日呑用和尚に相談した、和尚くわしくその話を聞き、 殿に対して、「彼の阿梅は極めて貞女なのに、殿は桜姫の言葉に従い無実の罪で殺したので、その一念が 凝って怨をなすのであるから、予不肖ながら供養施餓鬼をなして終生菩提を弔うので、殿憂うる事なか れ」といって、大法会を催し、彼と阿梅が殺された桜の木の下に行って、次の詩を詠んだ。

    寛魂幽靈如猛虎、報念無量焚己軀
    貞婦頃速殿法味 後生成仏勿怨天

 錫杖をもって、桜の木を打った。阿梅の方忽然と現われ、一首の和歌を詠んで曰く。

    しらせばや穂の出し花の面影にたち添ふ雲の迷心を

と高々と詠じて、女人の貌を変じて、たちまち如意輪観音の姿となり、紫の雲に乗り、西方さして飛び 去ったという。これを見た者皆、口ぐちに称名念仏を唱いたという。

 正行寺にあったと伝いられる観世音菩薩は、この阿梅の供養のために造営したもので、一度中絶した ものを、貞享四年、求願和尚再建したものである。花畑の阿梅塚には、阿弥陀仏の供養塔を建てた。こ の書は求願和尚の真筆である。

 時移り、正行寺は今はなく、阿弥陀仏の供養塔のみが、永泉寺と滝道の旧道の辻に草に埋もれて建っ ている。

        (「長沼名義考」・「岩瀬郡誌」より)


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