長沼町の伝説 -169/224page
エ門その他十数人の詰所である。
関ケ原以来、実に二百六十年、徳川幕藩体制も崩壌の寸前にあった。勤皇だ佐幕だといって世はまさ に物情騒然、欧米の文明開化の波が一度におし寄せて来た。庶民は封建制度の重圧からようやく目覚め て、下克上の時代となった。こうしたなかで、経済の行き詰りは武士階級の生活を極度におびやかして いた。
江戸小石川久堅町にある藩公松平家の内情も容易でなかった。領民の重税ぐらいでは到底まかないき れない。長沼領にもいろいろ献金制度を設けられた。例えば苗字御許しは金子十両更に帯刀御免は金子 二十両などなど。こうした混乱した世相のなかで、目付小山利吉が博徒と通じ、なれ合いの生活をして いたことは当然のことかも知れない。あるいは毒をもって毒を制する仕組ともいえる。
自宅では、賭場の開帳もし、しかも屋敷の地下には蹴下し穴があったとも伝えられていた。
駒吉は、数年の後に、関東ではおしもおされもしない博打仲間の顔役にのし上っていた。奥州の駒、 いや、白河屋駒吉として、日光に筑波山麓に八溝山中馬頭鳥山にと出向いた。
長沼にも、大勢の子分や客分を連れてきて、たびたび賭場を開いている。勢至堂峠追分、弁財天ケ原 にと人家は好まなかったらしい。
情婦も数人いたなかで、「お松」は陰に陽に添うように同棲していた。家老内山の麓に仮の住いをし て安らかな日を送った時もある。
ここには自然の清水が湧き出ていた。村人は駒の行状を知っているが気にもとめない。お松には近親