長沼町の伝説 -170/224page

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感をもって出入りし、野菜や味噌なども送りとどけていた。

 駒はその場の賭場が終ると、必ずその跡に何がしかの寺銭を伏せて、行ったという。早坂(白河領牧 本)で、博徒三之助を斬った時、白河藩から役人多数が長沼陣屋に来て、探索を求めたが、陣屋方では首を 左右にして断ったという。

 文久三年、長沼に大火があった。この年は日照り洪水で、凶作という年で戸数五百戸が焼け落ち、陣 屋も三つの寺も灰燼に帰した。

 その大火の一ケ月後、仮陣屋の窓に一ケの風呂敷包みが投げ込まれた。開いてみると、小判二朱金な ど併せて百三十両が出てきた。そのすりきれた胴財布には、飛駒の縫い伏せの模様がわずかに残ってい たという。

 駒吉が武州古河の賭場で、子分三十人とともに捕吏にかこまれ、乱闘の末、捕えられたのはその翌年 である。捕手数十人、ついに目潰により捕えられたという。古河地方の語り草となっている。

 その後、水戸藩の牢獄に送られて、間もなく若くして波乱にとんだ一生を終った。獄吏に毒を盛られた とも伝えられる。村の人々は言った。あの腹と度胸で表街道を歩かせたかったと。

 豊町本念寺墓碑に釋種清光居士。元治二年二月十四日、行年三十二才小山駒吉とある。これと並んで 釋種開清居士明治七年三月二日俗名小山利吉とある。

 家老内山の紅葉が一入くれないに染ったある夜「お松は人目をさけて、旅立った。行方は知れない。今 に残る『お松清水』は駒の行状を洗い流したようにしんしんと湧き出ている。

        (話者 久保初五郎)


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