長沼町の伝説 -172/224page
駒吉は相当名が知られていたものと見え、奥州の駒吉とその名が馳せられ、越後高田会津などより身 を寄せる者があり、それらの人々の墓碑が、今も本念寺にある。関東あたりの賭場もあらしたらしく、 下野草加の賭場でつかまり、水戸に送られ、牢に繋がれ、一服もられて終ったという。時に元治二年歳 三十二才だった。
ちなみに駒吉は愛妾を家老内、「おまつ清水」の近くにかくまっていたという。
(話者 桑名四郎)
岡部田の由来 《矢田野》
今は昔、岩代の国江花川のほとり、八坦の邑(現在の矢田野部落下大川原付近)を統治する岡部一族の 館があった。
永年、権勢をほしいままにし、支配下の土民を搾取し、当時の不安定な稲作にもかかわらず、少しの 年貢を怠る者があれば情容赦なく罰した。もしさからう者あれば、ただちにその者の首をはね、見せし めとして、その首をさらした。(昔城下町等にはそれぞれ刑場もありさらし場もあった事は事実である。 しかし、矢田野のような小さな村落で「首切り松」「さらし場」等のいい伝えが残っているのはいかに岡部 の権力が非情なものであったかがうかがえる)
このような事が長い間続き、肉親の生命を断たれた者のうらみはついに爆発し、近隣相語らい、その