長沼町の伝説 -209/224page

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ままたき祭り由来 《上江花》

 『天正十八年三月、豊臣秀吉は京都を出発し、小田原に向かう。四月、秀吉の全軍小田原城を囲む。七 月、北條氏、秀吉に降る。氏政氏照切腹、秀吉小田原城に入る。仝七月、秀吉、奥州征伐に向かう。 八月、秀吉、会津黒川城に入り、伊達政宗に謁見す。』と日本史年表にある。

 小田原を立った一行将兵、軍役三千名は、奥州街道に向かった。小山、宇都宮、白河を経て、長沼牛 臥城に着いたのは七月十八日である。

 これより先、長沼城主新国上総之介貞通は白河まで一行を出迎え、日暮れ頃には、長沼城下は兵馬 で埋まった。城主貞通は城下の領民を総動員して、接待に万全を期し、城中巽に位する楽永閣に(秀吉 を迎え)城下の婦女子数百人を集め饗宴の座に侍らせた。

 貞通は自ら衣服を改め、秀吉の前に伏して、この度の征の労をねぎらい、長沼城や当地方の軍状を 説明言上し、最後にひたすら当城の安堵を嘆願した。

 翌日、牛臥城をたった一行は会津背炎の嶮を越えて黒川城に向かった。この間、街道の道はせまく、 一行の先発は勢至堂にかかっても、後続部隊は、まだ城を出ないという大部隊であった。江花の宿を越 えて、沿道の山野は(漢字)緑滴るばかりの季節である。やがて勢至堂の宿場に少憩した。関守新八郎は来籠 の前に土下座し、用意の柏の葉に餅を包み、山菜を添えて歓待のしるしに差上げた。

 秀吉はこの素ぼくな趣向ともてなしが御意に叶ったのだろう。「これはいかなるおもむきのものじゃ


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