わたしたちの町 ながぬま - 032/075page

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 同じころ上野からこおり山まで「東北本線」がひかれ、人びとは遠くにいくのに大へんべんりになりました。
 90年ほど前になると、こおり山からあいづわかまつまで「ばんえつさい線」がひかれました。すると、多くの人は鉄道をりようするようになり、長沼町(あいづかい道)を通って歩いてあいづわかまつに行く人はだんだん少なくなりました。

すか川えき(90年前)

すか川えき(90年前)


 今から70年ほど前に長沼町にあったのりものは、じどう車は1台しかなく、じてん車、に馬車、に車がほとんどでした。
 60年ほど前になると、ようやく人は、「のり合いじどう車」にのって行き来できるようになりました。
 50年ほど前になると、すか川市や長沼町にたくさんの運送店ができ、今までに馬車やに車で運ばれていたにもつも、じどう車で運ばれるようになりました。

のりものの数(70年前)
じどう車
1
きゃく車
2
人力車
1
じてん車
124
に馬車
46
に 車
45

このまち合いじょでのり合い自動車が来るのをまち、すか川などへ行きました。(60年前)
すか川市と長沼町の7けんの運送店が合わさりすか川じどう車運送をつくりました。(50年前)
このまち合いじょでのり合い自動車が来るのをまち、すか川などへ行きました。(60年前)   すか川市と長沼町の7けんの運送店が合わさりすか川じどう車運送をつくりました。(50年前)

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