ふるさと昔話 - 016/056page
ぞーっと身震えしたが気を取り戻し、ねらいを定めてドーンと一発放した。
ところがどうだろう。弾はそれて祠の屋根板を打ち抜き、鴨は何事もなかったようにすいすい泳いでいるのではないか。狩人は身の毛のよだつ思いで、しばらくの間ぼんやり立ちすくんでいると、池の中程が盛り上った。見る間に、次第に水かさがが増し、やがて堤を越して狩人を追いかけるのである。
狩人は鉄砲をなげ捨て、うしろを振り向く勇気もなく、まっ青になって家に逃げ帰り、ロもきけず、雨戸を全部締めきって寝室に隠れた。ところが、大きな蛇が鶏窓から入り込んで、恐れおののく狩人の体に巻きついて離れようとしない。
そこに弁天様が現われて
「祠の屋根は水鳥の身代りになった。葺き替えよ」とお告げになった途端、弁天様も大蛇も姿を消した。それ以来、屋根は何回葺き替えても弾の穴があくので、その後石造りに建て替えられ、狩人の家は子孫代々鶏窓を造らなくなった。
弁慶の笈
(笈とは修験者が経文、仏像を入れて背に荷う箱)
今泉字堀の内の大銀杏の下に小さな祠(一坪位)があってその中に弁慶の笈と言い伝えられるものがある。昔し義経の家来、武蔵坊弁慶が此の地に来たおりに置き残したるものとか。武蔵坊弁慶は京都比叡山の西塔に住み、文武共にすぐれた剛の者であって、後に源の若大将、牛若丸と京都五条の大橋で主従となり、それ以後牛若丸が義経となり源氏の大将として兄、頼朝とともに平家を滅し、頼朝が天下統一に抜群の功績を残しながら兄、頼朝の怒りにふれ東北、平泉の衣川の館で命を終るまで生死を共にした名高い僧兵であるが、事実弁慶がこの地に来たかどうか、来たとすればいつの頃か、またなんの理由をもって来たのかと、いろいろ考えさせられるし、そう考えるのが世人の通例ではなかろうか。
これについてすこし長談議に流れるきらいはあるが興味深く義経、弁慶主従について考察してみたい。
武蔵坊弁慶は義経がまだ牛若丸といって京都の馬山にあずけられている頃、五条の大橋で主従の縁を結び以後、牛若丸と共に当時東北の豪商、金売り吉次の手をかりて平泉の藤原秀衡のもとにゆき、この地で成人となり源氏の軍勢を養い、時期の到来を待っていたものである。
藤原秀衡は当時、陸奥国一円を治める豪族にして昔し源義朝(義経の父)に武士としての恩義をうけたことがあるので義経に対しては身をもってその安泰を護ったのである。