ふるさと昔話 - 017/056page

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 この秀衡の義経に対する厚情は終生病にたおれるまで変らず此の世を去るときもわが子、泰衡を枕辺に呼んで遺言として
 「われ亡き後はひたすらに義経殿を護りとおせ」と厳命したとのことである。

 義経は平清盛一族の目をのがれ東北に逃避したのであるが、藤原秀衡の護りを得なければ安んずることはできなかったのである。

 金売り吉次が東北と京都の間をどの道を選んで通交していたかは知るよしもない当時の道順として考えられる通すじは京都より北陸道から海岸線を出羽〜陸奥の国に入る道と、北陸道から会津〜石背〜陸奥の国に入る道が一番近道で、どちらかと言えば会津を通り石背に出る道が昔しから開けた道であったようである。会津が平安朝以前から開けた地方となったのも早くからこの道が交通の要地即ち北陸地方と東北中央部とを結ぶ地点であったことが原因と思われるのである。

 頼朝が平家討伐の軍を鎌倉に挙げたとき奥州からはせ参じた義経は源氏の大将として破竹の勢をもって平家を一の谷、屋島、と追いしりぞけ遂いに壇の浦の戦いに平家を滅したのであり、当り前のことならば、その偉大な功績によって少なくとも兄頼朝の副将軍として鎌倉幕府の政治に重きをなすべきところ、心ない侫臣等の嫉視ざん言から兄頼朝の怒りにふれ鎌倉にも帰ることもできなく京都、奈良、比叡山と逃げ隠れ、追われる身となったのである。

 京都附近の人々は、義経の不遇を憐み、義経主従を隠すものあり、頼朝は北条時政に命じ、京都周辺の捜索を厳しくしたので、義経は文治三年二月遂に修験者の姿に身を替え従者と共に伊勢国〜美濃国〜北陸を経て陸奥の国に入ったというが正しい道順は知ることができない。それもそのはずであろう。義経主従は幕府の軍勢に追われる身であり、諸国の部将も又幕府の内命をうけ義経の行動に目を光らせ、捕縛して頼朝の恩賞にあずかろうと考えるものも多かったから、頼朝の勢カの及ぶ地方での義経の行動は察知するところが困難であったにちがいない。

 後世において知られるようでは当時世人の目をくらますことが出来なかったことであろうし、知られないのが当然というべきであろう。

 義経は弁慶外九人の家来をつれて京都から伊勢、美濃、北陸を通り、会津にぬけ、岩代の国白方郷に来たものと思われる。それには理由がある。本来ならば北陸より出羽の国に出て平泉に入るのであるが、この道は監視が厳しいと見て昔しの旧街道会津〜岩代〜平泉の道を選んだのである。義経は主従十一名を二つに分け御くりやの喜三太、片岡、鈴木、増尾、十郎権頭等を出羽の国を通らせ、自分は弁慶、亀尾、鷲尾、伊勢の三郎、備前の平四郎等を供につれ目をくらまして会津の道を選んだものである。

 当時岩代国一帯を治めていた国司は伊勢の国の出身で弁慶ともゆかりのある神宮寺某氏であったところから弁慶が特にこの道を進言したものと思われる。

 神宮寺某氏は、少年期を不遇の中に育ち辛苦を見た人で、非常に仏教の信仰家であったという。平泉の藤原秀衡とも親交があり、邸内外に阿弥陀堂を建て領民と共にこれを信仰したと伝えられている弁慶は神宮寺家の国造邸に入り邸内の阿弥陀堂に主君の武運を祈り、身替りとして京都より背負いきたる笈を仏像、経文と共に奉納したものと思われる。

 一行は数十日此処に滞在し、旅の疲れをやすめ平泉の藤原と連


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