ふるさと昔話 - 020/056page

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てくれた功績によるもので金一封は今泉代官の手を通じて下された。
 この金一封をもとに昆沙門堂の改築がおこなわれたのである。

 


  牛仏(うしぼっけ)縁起


 大字梅田字石仏の追分峠に通じる道端にひと抱い程の石がある。
 この石を牛仏といい、その名がこの辺一帯の地名になった。
 この石には牛頭観音の像が刻まれていて追分峠を上下する馬方達の信仰の対象になっていたものである。
 この牛仏にまつわる縁起に人情味豊かな話しがあるので此こに紹介する。

 滝原の水飲み百姓の次男に長次右工門というニ十五、六才の男がいた。家も貧しく、適当な婚入ロもないので長沼町に出て牛引きをしていた。
 当時は須賀川方面から荷物が山かげの御代、中野村に向うのには勢至堂を通る道と、滝原から追分を越してゆく道とのニつがあった。
 会津方部の荷物が中通りに送られるのもこの道順であったから荷上げ人足は馬や牛の背で荷を峠の引継ぎ宿場まで上げ下げしたものである。

 長次右エ門は問屋の牛を賃借りして長沼から追分峠の頂上にある引継問屋までの荷上げ下しをやって暮しをたてていたのである。
 「年頃になっても嫁を迎える程の金もないし、第一住む自分の家もない」と長次は思っている。現在、住んでいるところは長沼町殿町で百姓家の納屋の片隅みのわらの上ではなんともしょうがないではないか。
 「俺だって男盛りのカのあまる若者だからすきな女子がいないわけでもないのだが」と一人考える。

 滝原の萬屋という店があってそこの飯盛り女中におきんと云う舟津生れの女子がいた。猪苗代のきれいな水で育った彼女はあかぬけして滝原にはもったいないくらいの女だった。
 長次右エ門はこのおきんが大好きだ。「一ケ月に一回位しか飯をもってはもらえないが、毎日三度おきんに飯をもってもらいたいなあー」と時々心の中で思うのであるが、おきんを女房にするだけの気量も、金も、家もない彼にとっては高嶺の花である。

 「俺の現在の望みは牛一頭を買うことだ。自分の牛なら賃かせぎも多くなる」
 「それから家を買う。それから嫁子をもらうのだが、これから何年かかるやら」
 「十年もたったら俺は三十五才、おきんはそれまであの店にはいないだろう………」
 長次右工門はそんなふうに先きざきを思うとわれながらなさけなくなるのである。

 おきんも長次が嫌いではないらしく、長次が朝店の前を通る時は「帰りは休んでいらっしゃあいねえ」と愛そがよいし、タ方帰りがけにお茶を飲みに店によると何杯も飲みかげんのお茶を親切についでくれる。
 「舟津の方に何も変った様子は聞かなかったかえなあ」と舟津


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