ふるさと昔話 - 022/056page
鞍 掛 山
畑田字鞍掛にある岩石質の林丘であって、その丘骨の露出部に立っている岩石を鞍掛岩と呼ぶことから、その地帯を鞍掛山と総称する。源平の昔、源将軍義家公東征の際、鞍をこの岩上に卸して乗馬を憩わせたところから名づけたと伝えられ、今尚蹄の跡が時に見え隠れするといわれている。その最も高いものニ丈八尺(八・五メートル)他の何れも丈余であって、まことに奇観を呈したのであるが、大半風化崩壊して僅かにそのおもかげを止めているのみである。矢沢神社縁起書に「軍用 調備屯白砂山以比義家公称鞍掛石」とあるので、以前は「白砂山」といったらしい。古い文献によると「………而して其巨巌の青松と相暎帯する処、風光頗る明媚にして宛も小仙郷の観あり」と表現されており、小学校の遠足に必ず訪れた場であった。また詠み人知らず漠詩が残されている。奇巌突 立崖端 伝借将軍懇玉鞍 今日猶看ロ碑外 蹄痕歴々印頑磐
一つの課題−深渡戸字風越地内 鞍掛坂の道を狭んで畑田側の向い、ほぼ中央と思われるあたりに硬質の石がある。高さも鞍を卸すにはまことに格好、今の道路を掘り下げる前は鞍掛岩などと並立したものであろう。その前に石碑が倒れている。台石あり、本体の高さ一一〇センチメートル、中間巾六センチメートル、厚さ一八センチメー卜ル、刻字、中央上部に梵字、観世音菩薩、右に白○山、左に東堂山、馬頭とはないが東堂山の刻字から馬頭観世音と考えられる。うら側の確認ができなかったので、建立年代等不明であるが、これこそ義家公が鞍を懸けた伝説に結びつかないか。大事な一字が磨滅して判読困難であるが、白砂山であれば一層興味深いことである。
一字一石の石碑について
経典の一字一字を小石一つ一つに写したもので、字数の多い長い経典となれば数万個の小石を必要とするもので、数ケ月もかかる大事業であって貴重なものである。畑田の長命寺境内にある一字一石は延享元年(一七四四)十月二十七日妙法蓮華経一部八巻を一字一石に写し、実如性信女霊位の即証菩提をとむろうためにつくられたもので、ニ四O年後の今日まで一石毎に経典の一字一字をはっきり読み取ることができる。
その石の量は俵に四、五俵におよぶ大量なもので三尺(一mほど)地下に一坪(三・三u)範囲に埋められ、その上に石碑を建てたもので貴重な文化財である。また、矢沢字田中地蔵尊大仏の左方に建ててあるものは正面の刻字、奉書字蓮華経一字一石二部、うら、奉読大乗妙典二千六十部、右側奉大乗経典五百三十一部、左側、宝暦七丁丑(一七五七)天八月二十四日当所願主実道勝休とありまことに念入りな供養碑である。
これらの外同じ種類のものが矢沢字大池下五六の旧墓地、深渡