ふるさと昔話 - 023/056page

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戸字殿山の延命地蔵堂の境内及び深渡戸の江持から北横田に通ずる通の東端の三ケ所に発見されており、くわしく調査すれば旧白江方部にはまだあるものと思われる。

 


  かくれキリシタンの墓


 キリスト教(キリシタン)は秀吉のときに禁止されたが家康はその取締りをゆるめた。
 それは徳川幕府の財政を豊かにする必要から貿易による利益に目をつけて、その信仰をすすめていたのである。
 ところがその後幕府は、キリスト教が全国にひろまるにつれて、その教えが幕府の政治とさしさわりがあることを考えて慶長十七年(一六一二)キリス卜教の信仰を固く禁じた。

 キリスト教が最も信仰されたのは九州の島原半島を中心とした地方ではあったが、その信者はほとんど全国に散らばっていたのである。
 そこで幕府は全国に布令を出し、キリス卜信者の改宗を奨励し、改宗しない者は厳しく取締った。それで信者は表面 仏教信者の如く見せ、内心はキリストの教えを信仰し見破られないようにお墓も形も工夫をこらして信仰を続けた。
 これがかくれキリシタンの墓である。
 だからかくれキリシタンの墓は普通単に見ただけではよくわからないが、注意して見ると十字架とか模様がそれとなく形づくられている。

 代表的なものは畑田字鍜治内大賀家の旧墓地にある二基で、碑面は完全に削られ、上部に十字架を図案化してある。
 安土桃山時代(織田・豊臣)のもので、その後キリシタンの禁圧をのがれるために碑面を削ったものと見られる。

 大賀氏の先祖は須賀川城主二階堂の藩士で須賀川市泉田に居住したが禁圧をのがれて畑田村に移り住んだといういい伝えがある。
 また畑田長命寺、渡辺重綱氏の墓地内に倒壊していた墓碑は近年、白山寺吉田住職によってかくれキリシタンの碑と判断されて復元したが、同じようなものが更に一基倒壊しておりいずれも碑面の文字は削り取られている。
 その外矢沢字大池下の旧墓地内仏像を浮き彫りの一基もそれらしく、字与藤沢地内鈴木淳氏管理の石碑二基は数名の者が調査したがなぜ文字を削ったか判断しかねている。

 


  大久保舘跡


 大久保字宿のほぼ中央にあって東西約九0m、南北約七五mほどの円形の丘陵で、二重の濠を廻してあったことが明らかであるが、現在ではほとんど埋め立てられ(一部現存)僅かにその痕跡をとどめる程度である。
 特に内濠の大部分は戦後まで昔のおもかげを残していたが、水が停滞して蚊の発生源になるほど、衛生面及び利用価値の点など


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