ふるさと昔話 - 024/056page

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からそれぞれの隣接地主に売り渡されて宅地や畑地に様変りしている。
 大久保を流れる稲川(旧名志茂川)には七つの堰があるが、お濠に導水する堰は最上流にあり、殿様専用のものだったので今でも殿堰と呼んでいる。

 また、内濠の外側、北(ニ瓶適氏宅)を「上じょう」東(小栗山金一氏宅)を「下じょう」南(不詳)を「中じょう」と呼んでいた。
 このことばはよその舘跡にも残っているといわれるが何を意味するものか。
 条里制の名残りかと説明する先生もあるが、僅か百m足らずの区域を街割りする必要性にも疑問があり、今後の研究課題である。

 この館は別名大久保城又は岩瀬城などとも称され、天正年間、須賀川城主二階堂安芸守照行の四男、大久保兵部大夫資近の居城であって須賀川の支城的役割を果していた。
 従って須賀川とは運命の共同体であったが当の須賀川は盛衰常ならずこの時代に於ても三春との戦いは度々であった。
 文献によると「昨日まで田村(注三春の領主)の領せし地も、今日は二階堂の領となり」とあるように極めて安定性を欠いたのである。
 永禄二年(一五五九)ニ月ニ十五日のこと、三春の城主田村義顕、嫡子安芸守隆顕にて一千余騎を指し添えて須賀川を攻められる。

 隆顕は軍兵を二手に分けて舎弟弾正少弼顕氏に五百余騎を指し添えて安積郡富岡に於て須賀川の郎徒連合軍と一戦を交えた。
 この戦いは一旦須賀川の勝利に期したのであるが、田村勢は新たに八百余騎を三手に分けて今泉を攻撃した。
 その情報に須賀川勢は照行自ら馬にまたがり五百余騎を率いて今泉勢に合流、玉の木に於て決戦を試みたのであるが、田村の巧妙な作戦に加え間謀の策謀によって敗戦に追い込れ今泉籠城の者共は私財雑具を持ち運び谷沢(矢沢)畑田、舘ケ岡に逃げ散り、城外の軍勢はその夜のうちに長沼に退散した。

 須賀川勢が大久保指して退却するのを田村勢が勝に乗じて追撃する。追い詰めると直ちに風向きを見計らい桐林に火をかけたのが燃え広がり大久保を悉く焼き払ったとあるから、館もおそらくこの時焼け落ちたものであろう。
 大久保の戦いに於ても須賀川勢は大勢討ち取られ、照行はやっとのことで矢田野へ落ち延び、更に須賀川に帰城して引き籠った。
 この戦いで落城した今泉は田村氏の支配下になったが大久保は残された。

 資近は天正十年(一五八二)十月二十日に没し次で同十七年(一五八九)十月二十六日須賀川城が伊達政宗に攻略されて大久保氏は滅亡した。
 資近の墓は大久保瑞巌寺にあり、二段の台石を含め高さ一七六p、四O×三ニcm方柱状の正面に一等院殿宏夷範公居士、天正十壬午年十月二十日、側面にニ階堂安芸守照行四男大久保兵部大夫資近、執権相楽三郎右エ門直舎、嫡流相楽助右エ門政直と記されており、霊位は瑞巌寺住職によって供養されている。


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