ふるさと昔話 - 025/056page
山の神の腰掛松
畑田字藤山地内、古内から諏訪池の堤を渡り牡丹原に通ずる道路の左側の荒れ地に松が一本植えてある。
山林と田んぼの界の三叉路、以前は一〇〇uほど荒れていたが今はかなり少ない。昔坊主姿の貰い人が度々村を訪れたが、村人達はいつも親切に扱った。その乞食坊主が老令となり、余命が少ないと悟ったものか意外なことを申し出た。
「この村からは大変お世話になった。永くみんなをお護りするため人柱に立つから生きたまま埋めてくれ」真剣な申し出なのでそれを実行し松を一本植えた。
ところが松は根元近くから三本に分れて成長した。
三つ又の木は「山の神の腰掛」といわれ、伐ればたたりがあると伝えられ、木挽職人はもちろん誰も手を出さない。
この官有地を競売しようとした際、さすが豪傑といわれた者も買う気になれなかったといわれる。やがてこの松が枯れた。焚きものが不足な時代だったので、ある人がこれを伐り最後に根まで掘ろうとした際、目を痛めおどろいて掘るのを中止した。
村では二代目の松を植えたが、不思議にも初代同様またまた根元近くから三つ又になりあだかも三本松のように伸びている。
またこの南東約五〇〇mに山の神が祀られていたといわれるが、鎮守の境内に遷座されている「若木権現」の祠がそれであろうか。
白山寺焼失のいきさつ
矢沢の白山寺は八幡太郎義家公後三年の役の際、白山妙理大権現(矢沢神社)に戦勝を祈願し御利益があったため公が信頼する旧桙衝村荒鹿山長楽寺の住職満月上人に仰せ付けて別当寺として建立し明池山白山寺と号したとある。
境内は池ぎわの広場から県道近くまでかなり広大なもので戦中頃まで所どころに敷石のようなものが見受けられたが現在では確認がむずかしい。
江戸時代の堂守が何代目かも明らかでないが、天保年代の焼失については記録が残されている。ところが記述がまちまちで断定がむずかしかった。
広報いわせのシリーズ記事 わが集落の矢沢に「白山寺は天保元年四月十一日火災のため縁起書等焼失し」と書いたところ吉田住職から何を根拠にしたか違っていると指摘された。
筆者は役場保存の「社寺明細書帳」からとったもので、それには「天保元庚寅年四月十一日詣堂不残焼失に付」と明記してある。一方岩瀬郡誌には「天保九年四月」とあって八年もズレのある原因が不明のままであった。
違いの点を吉田住職にたずねると、寺に保存されている次のような書類を提示した。
その要点を抜き書きすると、天保九戌年十月十九日夜八つ半時(今の午前三時)焼失、住職七十?歳老僧の上病身のため歩行不自由、焼小屋等も出来申さず、地蔵庵に仮住宅いたし借金等有之