ふるさと昔話 - 026/056page
翌亥年出光し……境内の杉を伐採売却したほか、村内それぞれ分限に応じ寄造することに村中一統相談一決し………とあるが托鉢も思うに任せず結局財源不足で延びのびになり再建できたのは十二年後の嘉永三年庚戌年九月二十六日の上棟である。
内容が極めて具体的であり棟札も残っているので信ぴょう性が高いと認められている。再建の際、寺の所有であった現在地の杉の大木を伐採して建築したのであるが、遠くなるので反対した一部の坦家が離れ、字登の内九三に地蔵堂を建設(以前からあったが大きく建て替えたと思われる。)その際分霊という形をとったといわれる。
地蔵堂は敷地二一五坪(七一〇u)本堂三間×四間(約四〇u)と立派なものであり、一時は住職を置いたという話もあるが、信徒が少ないため維持困難となって館ケ岡の坦家になったものである。
明治初期の記録によると、地蔵尊の信徒はニ十戸(白山寺を離れた坦家数とは違う)一戸年七十銭ずつ出し合って維持したとあるが、堂守僧を置いた時期は別であったろう。
現在のお堂はその後規模を縮少して改築したものである。
畑田村と柱田村の水争い
畑田村字後田地内の田んぼは古くから柱田村との界を流れる水路を利用するのが慣習となっていた。
長い間なんのトラブルも起きなかったのをみると、水利権についての協定があったのであろうがその書類がなおざりにされたまま時が過ぎた。ある年畑田村と柱田村に水利権の争いが生じ、受益者間で話し合いがつかず、庄屋同士の協議もこじれて収拾がつかなかった。
当時畑田村は長沼領、柱田村は今泉領であったため、遂に領主間の話し合いに発展し、双方面子にかけて交渉した。
しかし、水路敷が柱田村地内であったのち畑田村の敗北で決着した。「畑田を見殺しにするな」という長沼領主のお声がかりで、領内からたくさんの人足(賦役)が割り当てられて突貫工事が行われ、ひと冬の間にニつの溜池と導水路が完成した。
当初、西方の石井池の余水を流入する計画で導水路を造ったが落差がなく、ほとんど用をなさないまま戦中までそのおもかげを残していた。二つの池には現場で采配を振った原忠蔵という役人の名に因んで「原池」「忠蔵池」と名づけられたが、原池は耕地基盤整備事業で姿を消し、その水不足を補うため忠蔵池の大改修を行なって貯水量の増加が図られた。互いに仲良く分けあっていたのに、殿様まで出る大騒になったの早魃の年であろうと、福島地方気象台に調査を依頼した。