ふるさと昔話 - 027/056page

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 時代は今泉に旗本の置かれた元禄から維新までおよその見当がつくかと期待したが、 「日本早霖雨資料」という文献の中から当地方の関係分を抜き出すと、宝永三年、五年、享保ニ年、六年、宝暦四年、文化十四年、文政六年、天保三年、嘉永六年と大きなものだけでも九回もあって、どの年であったかは推定することが困難である。

 


  与藤治の語源


 大字矢沢、白山寺のうらやや東寄りの山林内に古い屋敷跡がある。
 掘り井戸も昔のおもかげを残し、井桁は一つ石をとり抜いたもの、ここが大泥棒の根城だとは容易に見敗ることができなかった。
 昔の山道は狐や追いはぎがつきもので狐に化かされた話はお愛嬌ものだったかも知れないが、追いはぎ強盗にかかると持ち物ばかりか丸裸にされる恐ろしいものであった。

 特に夜道をねらって通行人から金品を強奪する泥棒を「夜盗打ち」といった。
 どうもこの一帯は被害が多い。長沼からの捕り手がずいぶん探索するのだがいつも空ら振り。しかし、長い間にやっと根城をつきとめ何回踏み込んでも藻抜けの殻、どこにどう隠れるのか全く判断に苦しむ始末で、歯ぎしりをしながら引き揚げねばならなかった。

 この時もたしかに逃げこんだ筈だが何の気配もしない。
 あきらめて帰ろうとした途端にドサドサと壁の一部が崩れ落ち、見るとそこに息を殺して潜んでいたのである。一歩も動かなかった。

 「カマザス」というそうだが意味が良く分らない。
 火災予防のためカマドのわきを二重壁にしたその間らしい。或いはカマドのうらでススがたまる場所なので「カマズス」というのが訛ったのであろうか。二重壁にしたのは隠れ場として特に造ったのであろう。

 捕り手がなわをかけようとすると「なわの必要がない。おれをしばったところで逃げる気になれば逃げられる。しかし今度は年貢の納め時と観念したからすなおについて行く」と長沼に向ったまま帰らなかったという。

 無法者にありがちな一人暮らしだったため家屋は主のないまま建ち腐れとなり、わずかに地元民によって語りつがれて来た。
 やがてお役人による地理調査が行われた際、一帯の地名をたずねられ「夜盗打ち」の住んだところと話したため「与藤治」と登録され、現在の公式字名になったものである。


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