ふるさと昔話 - 028/056page
座頭ころばし
畑田の牡丹原から深渡戸に向って鞍掛の坂を下り、丁字路を左に北横田へ向っての左側(東)の辺を「座頭ころばし」という。
何か意味ありげな名称なので心当りを聞いてみたが特別な由来は出てこない。
結局あの一帯には大は高と一メートル以上からさまざまな石が三十個以上もころがっており、現在の道路ができる前は道路の近くだったので座頭が通ればつまづいて転ぶでないかと想像しての名称であろうという平凡な話で終った。ところで郡山市の湖南町にも同じ名称があるので調べてみたが、ワグト(曲ぐ途か意味不明)は減水期の波の静かな日には飛び石伝えに通れるが増水期の西風の強い日には湖面が荒れて難所になる。
そのためにワグトの上にある七折れの越路を通る。
そこを「座頭ころばし」という。昔、盲人がそこを通って転落したところだと古老が伝えるとあるだけである。座頭ということばは今は滅多に聞かれないので若い人たちのために解説を加えておくが単に盲人のことであったり、三味線、胡弓などで歌を演じる門付けの貰い人、又はあんま、はりを業とする者を指す場合がある。
いずれも盲人であることに変りはない。昔、ある座頭が、意外に実入りが良かったので大喜び、座頭ころばしの難所も無事に越したのでひと休みしながら、たくさんお
金の入った巾着を"夢ではないか"といいながら両の掌から放り上げては受け何回も繰り返している所に通りかかった人がこっそり近寄ら放り上げたところをひょいと横取りしてしまった。
座頭はわが掌に落ちてこないのでがっかりし「やっぱり夢だったか」と涙を流して残念がった話があるが、盲人の耳は敏感な筈、人の近づくのを知らぬわけがあるまい。誰かの作り話であろう。
洞内の与一郎
上大久保、西町屋敷のうらを東西に通じる道路の北側に古井戸が残っていた。
酒屋与一郎の使ったものと伝えられていた。
与一郎は地方きっての造り酒屋で雇人を数人使っていた。
表向きは看板通り立派な酒屋の旦那であったが、時折り行く先不明の行動が役人の目には何か不審が感じられたらしい。しかし、彼もさる者、容易に正体を現わさなかったが捕り手役人のネバリ勝ち、とうとう二足わらじの実体をつきとめた。
吟味の結果、別名を「洞内の与一郎」といい、奥州有数のバクチ打ちの大親分であった。当地での根城は隣りの畑田村字牡丹原地内最近まで通称「バクチ窪」と呼ばれた。
山林内の窪地、かなり急傾斜な摺り鉢形の地形を利用し、直径三間程(五・五m)を高さ四・五尺(約一・五m)の土塁で囲み