ふるさと昔話 - 029/056page
いかにも賭場であったことをうかがわせる姿が戦後まで残されていたが、風を防げる格好の場として一時開拓者宅地となった。
しかし水のはけが悪いために住宅に不向きであり、他へ転居したため開田され、今はそのおもかげを止めない。遂に最後の日が来た。しかし引き立てられるに当っても少しも動じなかったという。
雇人に命じて残っていた酒を全部流させた。
五尺桶から流れ出た酒はまるで川のようだったと伝えられている。
与一郎はその後帰ることはなかった。
打ち首になったと噂された。与一郎には娘が一人いた。娘にはおとがめがなかったが、余りのできごとに世をはかなみ尼になった。
相楽幸男さんの所にお寺があったと伝えられているがその尼寺でなかったか。
付近には阿弥陀三尊仏やいろいろな供養碑が並んでいる。
腹子地蔵因縁話
下大久保、通称寺作といわれる屋敷から南に、稲川(旧名志茂川)の橋を渡り、長沼町木之崎字北作に通じる農道の左側の小高い林の中に小さなお堂があって地蔵尊が安置されている。
地蔵尊は腹子地蔵といわれ、生れ出るまでの腹子を守る地蔵と伝えられている。
昔から、道を距てた小栗山さんが守護しているがその由来は明らかでない。
一族に死産、早産が多かったこどから勧請したものであろうか。腹の一部が開くようになっているが、中を見れば罰があたるとか目がつぶれるなどと伝えられ見る者がない。
只一人親類筋の小栗山喜吉さん(庚申坂の東にあった屋敷を払って須賀川に出て獣医を開業した人)が日露戦争に出征する際、どうせ命がわからないのだからと、そっと見たという話があるが無事帰還して長命した。
当人はどんなものがあったとも、なかったとも生涯誰にも語らなかった。この付近には寺があったと伝えられ、旧桙衝村、長楽寺の門徒である鶏称山浄土院養春寺であったろうと想像される。
養春寺は天正元年(一五七二)宥伝法師が開基し延享四年(一七四七)に廃寺となった。
真言宗であり地蔵尊はつきもの、境外お堂としてまた小栗山家の守り本尊として今日に至ったものである。