ふるさと昔話 - 030/056page

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 岩瀬郡二十四番順礼札の十四番であり八条大納言親房卿の次の御詠歌が残されている。

 よしあしの むくいのせばや 歯車の
  めぐるみのりの 今ぞ大久保

 当主一雄さんの先祖守左エ門さんが一時地蔵堂の境内に居を構えたことがあり、その後お堂が老朽化し雨漏りするので地蔵尊を本宅に移し、久しい間座敷に安置したが、「ここでは大衆を護ることができない。元のようにお堂に入りたい」とのお告げに小栗山さんが大あわて、地区内の信者から志でよいからと協力を求め、ほとんどを自費で元の境内に今のお堂を再建した。

 


  矢沢と舘ケ岡の境界争い


 この争いは舘ケ岡から訴え出た。
 それによると舘ケ岡の地内である南山陰の畑二反歩余りは先年、代官市川孫右衛門検地の際に認められて耕作しているのに、矢沢村の者が妨害するばかりか、この四月には右の畑へ馬を放して麦作を荒らした。そこで馬四匹を捕えたところ馬主は、この事件を内々に済ませたいと考えのようなので、今後このようなことのないように一札の案文を作って示したどころ和談が整わなかった。
 それというのは矢沢村にとって承服し難いものであったからである。

 舘ケ岡の言い分は飛び畑だけでなく、峯より南(滝の原)を山陰といってこちらの地所であると主張した。
 これに対して矢沢村では、飛び畑は認めるが滝之原はソネ道を界にして南は残らず矢沢の地所である。
 山陰と申すのは鍋山村境であって場所違いであろう。
 このことは延宝年中の検地によって明らかな筈であると反論した。また舘ケ岡村の者が滝之原の草を盗み刈りした際は、鎌を取り上げたという事件もあり論争はもつれた。

 村境に影響するところから地方での裁定がむずかしく、今でいう最高裁である幕府直轄の評定所で裁かれた。
 くわしいやりとりは略するが、舘ケ岡の申し立ては証拠として採用し難いとして、ほぼ全面的に矢沢の主張が認められた。
 吟味の結果、鍋山村境に山陰という名があり、二ケ所に同じ名がないと認める。
 従って山陰という名は論所の滝之原でないことが分明である。
 論所の畑は舘ケ岡の飛び地に紛れもないが、両村の境はソネ道であり南は矢沢分である。
 今後舘ケ岡ではこの野へ入り会いしてならないし、矢沢村でも舘ケ岡の飛び地へ妨害してはいけない。
 最後の締めくくりは「仍為後証各加印判双方江書下授之条永不可違反者也」
 享保九甲辰年四月十三日 となっている。

 この論争には十名の大名、奉行たちが評定に加わっており、それぞれ記名押印しているが、名はいずれも略記である(例稲下野)これを文献によって調べると稲生下野守正武、久松大和守定持、筧播摩守正鋪、駒木根肥後守政方、諏訪美濃守頼篤、大岡越前守


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