ふるさと昔話 - 031/056page

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忠相、之伊隊(本名不明)松平相模守近昭、牧野因幡守英成、黒田豊前守直邦。
それにしても、八代将軍吉宗公に用いられて越前守に任ぜられ、人情味豊かな名判官として歴史に残り、芝居や講談などでもおなじみの大岡忠相が、矢沢と舘ケ岡の境界争いの裁きに加わっていたとは興味深いことである。
大岡様が数え四十八才のことである。

 


  庄屋橋本権兵衛


 畑田村の山境論はたくさんの人たちによって語り継がれているが、必ずしもほんとうの形とばかりは限らない。
 もっとも庄屋橋本権兵衛のいきさつは伝説の域を抜けきれないが、境界さわぎは立派な御裁許書が残っており歴史的事実である。
 一部誤り伝えられている一つは、相手の横田という隣り合せている北横田と思い込んでいるが南横田(現長沼町大字横田)であること。
 もう一つは村界の争いと誤解していること。
 相手が南横田と分れば村界でないことが明らかである。

 さわぎの種は畑田村の土地に設けられた入会権であり、対象は刈敷であった。
 刈敷きというのは山野の草又は樹木の茎や葉を刈り取り、緑のまま田畑に敷き込んで地力の維持に役立てるもの。
山野の少ない村は多い村と協定して一定の区域を限りその権利を設定したのである。

 ところが横暴な指導者があると、住民を煽動して権域の拡大を図り争いを引き起した。
 南横田村との争いも突発したのではなく、前まえから小ぜり合いが繰り返された揚句、次第にエスカレートしたのである。
 表沙汰になったのは殺生事件のあった後であるが、南横田村から訴之出た言い分をみると、東笹山の根通から北に道沿えに峯から東北の平笹山 奕窪、油窪、花音山、藤五山、東風越、藤から山、ばぜう谷地までが南横田、北横田、深渡戸三か村の刈敷山であったのだが、畑田村では石井山、水後、倉掛石山、牡丹原向狼窪から奕窪、蟹窪、東窪までの峯切であることは昔から決っていたと主張、双方が譲らなかった。

 しかし評定の結果は、南横田村の申す道切境で所々に草刈道があるというのは証拠として不正であり、畑田村の申す通り北は石井山から東は蟹窪、東窪まで峯通りを境と相定めた。
 今後境を越えて双方が互いに入会ってはいけない。
 後々の証として絵図面に線を引いて重要な個所に印判を押し双方へ下げ渡したから違反してはいけない。
 元禄二年己巳五月六日

 後裁許書には評定に加った大名方の名は略記されているが、本名、官名を調べると次のとおりである。

 稲生五郎左衛門正照、松平美濃守重良、北条安房守氏平、甲斐庄飛弾守正親、本多紀伊守正永、戸田能登守忠真、酒井河内守忠挙。

 この評定が水戸で行われたという説もあるが、事のいきさつ、


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